スロベニアの民族衣装①

スロベニアの民族衣装を少し調べていて、ぜひここでも紹介したいと思いました。ヨーロッパの衣装はどこかに通っていて、日本のように帯に着物に、かんざし、また男の人用の着物の着こなし方や、袴だったり、びしっとはっきりした特徴のある衣装は世界的にもとても珍しいものなのではと思いましたね。

スロベニアの民族衣装の発展

スロベニアの民族衣装は、環境、地理的条件、生活様式、社会的ステータスによって異なり、発展していきました。産業革命がおこるまで、スロベニアの大多数は農民と区分されていたため、そこまで社会的ステータスの区分ははっきりしていたわけではなかったのですが、工業の発展によって衣服の素材、パターン、生産は大幅に変化を遂げ、ステータスもしっかりと分かれるようになり、洋服でアイデンティティやステータスを示そうという動きから民族衣装や日常の衣服の形態も変わっていきました。

この民族衣装がでてきた時期というのは、スロベニアでは18世紀後半から19世紀前半ごろといわれています。スタイル、パターンなどからおおまかに3つ、アルプス、プリモルスカ、そしてパンノニアスタイルの3種類に分けることができます。

アルプススタイルの民族衣装

アルプススタイルの民族衣装は、スロベニア北西部(ゴレンスカ地方)、コロシュカ地方(英語ではカリンティアと呼ばれ、スロベニアの北部の地域で、オーストリアと地域を分けている歴史的に面白い地域です)、中央スロベニア、シュタイリア地方一部、南東部のスロベニア地方、そしてプリモルスカ地方の一部(イストリア地方を除く)の広範囲で利用されていました。

男性の衣装は染められたリネンのズボン、胸の空いたシャツ、ウエストがマークされた、これもリネンで染められたチョッキがみられます。一方女性は,白いリネンシャツ、足首までの長さの袖のないワンピース、そしてエプロンが基本的なパーツで、リネンシャツ、ウエストがマークされたチョッキ、頭をカバーする被り物(帽子とはまたちがいますよね)は地域によってかなり違いがあるそうです。

プリモルスカ地方の衣装

プリモルスカ地方というのはスロベニア西部を意味し、イストリア半島やイタリアのトリエステの地域でこの衣装は利用されていました。

男性の衣装はアルプス地方とパターンは似ていますね。ただズボンはひざ下がタイトではないように広がっています。素材は基本的にはリネンで、冬には白い布でできたズボンを重ね履きしていたそうです。

一方女性はかなり違いがみられます。長いシャツを中に、袖なしのロングチョッキを外に身に着けていて、まさにチュニックのような着こなし。唯一アルプス地方と似ているのは、洋服の長さや頭を隠しているところですね。

パンノニア地方の衣装

パンノニアスタイルの衣装は、ベラクライナ、ドレンスカ地方(スロベニアの南東部)、プレクムリェ地方(スロベニア北東部でハンガリーに近い)、シュタイリア地方の東部で着用されていました。

男性も女性の衣装も上にあげた2つのパターンとは一味違います。アルプス地方とは反対に、この地方の衣装は地域であまり違いもなかったそうです。また、近い国々、ハンガリー、クロアチア、チェコ、スロバキアに南ポーランドとも素材やパターンに似ているところがあるそうです。

また1870年代まではリネンが主な衣装の材料だったため、リネンの色から「白い衣装(Bela noša)」と呼ばれていたそうです。

男性の衣装は長いリネンのロングシャツ、そしてこちらもリネンの白いズボン、ウェストコート、女性はリネンでできた足首まであるシャツワンピースをウエストのところでしばって、上に長い袖なしの羽織ものを着ています。

やっぱり女性は長い丈の洋服を着ていて、服のパターンは違えど日本と似ている、しかもウエストを絞るところも似ていると思いました。また髪を隠すのもスロベニア、またはヨーロッパ風なのかもしれませんね。

民族衣装の変化が消える

 

19世紀中旬ごろから、地域ごとの民族衣装の違いは消えていきます。それは産業の発展に伴う技術の発展で、より大量で安価な素材で衣服が背生産できたこと経済の発展や交通の便がよくなったことで、洋服のパターンが同化していきます。他国の流行を取り入れたり、同じパターンでいろいろな色を選べるようになるなど、都市部から農村部へと少しずつ変化が見られました。

最初は普段着ではなく、「晴れ着」から変化が見られました。若者たちは農業の他にほか「副業」で稼げるようになり、そういったポケットマニーを衣服に費やすことで変化が見られたわけですね。

19世紀後半から20世紀前半にかけて、女性は裾が広がったワンピースにウエストをきつく締めたワンピース、色がついたヘッドスカーフ、すかーたの下にはくスカートといったスタイルの衣装が主流でした。一方男性は、長ズボン、ジャケット、ウエストコート、シャツ、ハットが主流となりました。

こういった変化はスロベニアだけではなく、ヨーロッパ全土の動きだったそうです。陸続きの国々は面白いですね。

一方日本も19世紀中ごろから、絹の大量生産が可能となり和服にもバリエーションが生まれ、西洋の人たちと交流のあった上流階級の人たちは洋服にも袖を通すこととなります。

世界との交流や技術の発展は経済や生活もどんどん変えていくのですね。

 

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