【オシムの言葉】サラエボ出身の名将であり名匠イヴツァ・オシム(番外編)

イヴィチャ・オシムをご存じでしょうか?本名はイヴァン・オシムといって、ボスニアの首都サラエボ出身の元サッカー選手、サッカー旧ユーゴスラビア代表、そして日本代表監督だった方です。サッカーファンなら絶対知っている人物だと思います。

前に書いた悪者見参と同じ、木村元彦さんの著書です。2003年にJリーグのジェフ市原・千葉の監督に2003年に赴任しました。当時のジェフはJリーグでも7位、格下のチームとの練習試合でも苦戦するなど、いい状態ではなかったのですが、オシムは2年後チームをナビスコ杯優勝に導きました。2006年には日本代表監督に就任しますが、2007年11月脳梗塞になってしまい、監督を退任しました。それ以降は監督をしておりません。

この本では当時のジェフの状況はもちろん、サッカーの描写がたくさん出てきます。私はサッカーのルールすらちょっと危ういほどのサッカー知識ほぼゼロですが、そんなことは関係なく一気読みできます。それは、オシム氏の魅力、カリスマ性に一気にとりこになってしまうからです。

考えないとわからない、簡単じゃないけど虜になるオシムの言葉

タイトルになっている「オシムの言葉」は本当に格言ばかり。様々な比喩、率直に語らないものいいは取材する記者や選手も戸惑うことが多く、一度考えないと意味が分からないことがたくさんあります。会見では記者にも質問したり、厳しい言葉を言ったり、そして必ずジョークで落とすオシム節はみんなを虜にしてしまいます。

「ベテランとは第二次世界大戦のころにプレーしていた選手」

「レーニンは『勉強して、勉強して、勉強しろ』といった。私は選手に『走って、走って、走れ』といっている」

「残念なことに、7日8日は休みを与える(笑)ただ忘れないでほしいのは、休みから学ぶことは何もないということだ」

「ライオンに追われたウサギが肉離れをしますか?要は準備が足らないのです」

「アイデアのない人間にもサッカーはできるが、サッカー選手にはなれない」

などなどなど、彼の言葉は本当に考えさせられてします。まさに記者にも「そんなことをきくのですか?」とかいうし、変な質問をするなら容赦なくぴしゃりと返されるのです。選手も本当に何を言っているのか考えさせられます。

彼は、「新聞を読むとき行間をよんだりするでしょ?サッカーもそう見てほしい。言葉の意味を考えないとだめだ」と言っています。

それは彼自身が旧ユーゴスラビアの民族紛争が起こるとき、ユーゴの代表監督として大責任を担い、戦争を始めるのは、言葉、マスメディアの力ということを経験で分かっているからこそこういった物言いになったと著者は分析。

言葉を直接わかりやすくいったり、伝えたりすることは危険ということなのです。だからこそ遠回しに言ったり、比喩を使ったりするという、本当に知的な人だなと思いました。

彼のサッカー哲学は人生に通じる

この本ではサッカーを通してオシムの言葉がでてくるし、同選手や記者が彼の言葉を受け取ってきたのか、どう思ったのか書かれていますが、これはサッカーだけじゃなくて、人生にも通じると思わざる負えません。上に書いた言葉のいくつかは、すでに人生に通じるものがあると思ってしまうのはわたしだけでしょうか。

日本のチームまたは代表チームを作るにあたって、彼はヨーロッパのサッカーをそのまま当てはめるのではなくて日本のサッカーを作ること、尋常じゃない練習量をこなさせ、休みを削って選手を鍛え上げたり、サッカーの勝ち負けよりも質にこだわったり、お金やオーナーよりもサポーターをきにかけたサッカーを心掛けたりと、「普通」じゃないやり方でした。

それもこれも今ある状況、選手の状態、日本が持っている長所と短所などを踏まえて考えてのこと。本当に四六時中サッカーに事を考える情熱と明瞭な頭脳がないとできない事です。

 

 

ボスニアサラエボ生まれのオシム氏ですが、母方の両親、つまり彼にとって祖母は南ドイツに移り住んだポーランド人。そしてサラエボは当時大多数の民族がいなかった、まさにコスモポリタンの都市(クロアチア人、セルビア人、ムスリム人がほぼ平等にすんでいました)。 人種、宗教が違うのは当たり前。教育熱心で常にジョークをとばすお母さんは勉強だけでなく、道徳的な面でもしっかり彼を教育し、弱いものをいじめない、習慣や文化が違う人を見下さないと言い聞かせていたそうです。そして彼が生まれたのは1941年で、大事二次世界大戦さなかで、4才の時にサラエボは解放されました。

サラエボで生きていくためには、アイデアがないと生きていけない。今日は生きたけど明日はどうなるかはわからない。問題が起きたときにどう対処するか、問題解決能力が大事で、それは相手をだましたりものを取って生き延びるということじゃないんだといっています。

家庭は貧しく、本もなくラジオも誰かの家に行かないと聞けない状況だったそうで、サッカーをやった理由は手がかからなかったスポーツだったからだそうです。靴下を丸めたボールで3時間遊んでいたそうで、おかげですごい感覚が身についたそう。サッカーも上手な一方で学業も優秀でサラエボ大学の数学科へ進み、研究者にならないかとのお誘いを受けるほどだったのです。しかし、サッカー選手としての給料がよかったのでそっちへ転身しました。

これがだめならあれを試す、こう攻められたら、こう返すなどなど、バルカン半島にいる選手がなんで優れたテクニックが多いかはこういう能力を持っていることが大きいし、これがあるかどうかはサッカーを見なくても普段の言動でわかっちゃうといっています。サッカーだけではなく、日々緊急の事態が起こったり、思った通りに行かないこと、自分のせいだったりあらゆることが影響して物事がスムーズに運ばないことはあります。そういう時にこういった能力は本当に大事ですね。

選手引退後は監督に転身。ユーゴ代表監督になり、ワールドカップへ出場しベスト8となり、欧州選手権へ!というときに旧ユーゴスラビアの分裂が始まります。

サッカーは旧ユーゴでは大人気のスポーツで、各共和国から選出された選手たちや監督には国の崩壊、政治的な圧力が加わり、ユーゴスラビア軍がサラエボが攻撃されたことを理由に、監督を辞任。すぐ彼は次男と一緒に高校卒業の晴れ着を買うためベオグラードへ行きますが、それからサラエボ攻撃が始まり妻と長女となんと2年も連絡が取れなくなります。

幼少期の経験やユーゴスラビア紛争の経験が、彼の言葉により深みを持たせたのでしょう。

教育者としてもすばらしい

彼は選手の一人一人をきちんと見ていて、得点を入れた選手を決してほめず、しっかりとアシストをした選手をほめたり、選手に応じた言葉をかけたり、年俸やメディアの評判などは一切気にせず、選手を平等に扱ったそうです。代表やスタメンに選ばれない選手にも自ら優しい言葉をかけ、気にかけていたそう。

だからこそフィールドだけはなく、私生活のこともなんとなく頭に入れて置いたりしてケアしていたそうです。

ユーゴ紛争の時は、各共和国平等に選手を選ぶのか、コソボ選手をいれるのか?などなど話題に上がったそうですが、彼は「11人アルバニア人選手がよければ、わたしは彼らでチームをくむ」とまで言っています。

そうしたフェアな態度は選手から支持されます。事実として崩壊してしまいましたが、彼のもとでプレーしたサッカー選手は国籍関係なく、彼を尊敬して偉大な監督だと口をそろえて言うのです。日本の選手も、監督は見てくれていると心から思えました、とも言っているんです。

何回も書きますが、人生について本当に学べる本なので皆さんにも読んでいただきたいですね。

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