アントン・ヤンシャ〜スロベニアの養蜂家のパイオニア〜

世界蜂の日にちなんで養蜂家のパイオニア、アントン・ヤンシャさんをご紹介します。1734年、ブレズニッツァに生まれたアントンさんは現代養蜂家そして蜂の専門家として知られています。元々は画家の教育を受けていたのですが、養蜂家に転身して成功を収めました。

絵と養蜂に情熱を燃やす

彼は9人兄弟の1番上で、他に4人の弟と4人の妹がいました。19歳の時にお父さんが亡くなってしまい兄弟たちを養う責任が肩にのしかかります。元々彼のお家には100個の蜂の巣箱があったそうで、貧しいながらも綺麗な自然に囲まれ、勤勉に養蜂を学びます。ヤンシャ家の蜂のすの周りに、聡明な地主さんたちと集まって農業や養蜂について学ぶのが好きだったそう。そして結果としてこれが最高の養蜂学校になったそうです。

それと同時に弟のティネとロヴロとアントンは絵に興味があり、家には小さなアトリエもあったそうです。三人ともドイツ語の読み書きができなかったにも関わらず、ウィーンの学校に合格し絵の勉強を始めます。困難を乗り越え、女帝マリア・テレジアが出した、イタリア行きの奨学金も手にするほど絵の勉強に励みました。弟のロヴロはプロの芸術家として活躍します。

しかし1769年彼はキャリアの方向転換をし、養蜂の講師となるのです。

たった4年で残した功績

ちょうど1769年、女帝マリア・テレジアは養蜂学校を設立します。彼はこの時35才。おそらくこのまま画家として行くのか、少し不安だったのかもしれません。そんな時幼少の頃から大好きだった養蜂の道へ行こうと、大きな転機が訪れます。

思ったら行動で、即ウィーンのアウガルテンの養蜂学校の職に応募し亡くなるまで4年間、故郷で培った養蜂技術、正確な蜂の知識を生徒たちに教えました。スロベニアの養蜂技術が帝国中に広がった行きました。この間、Razpravo o rojenju čebel(1771)とPopolni nauk o čebelarstvu(1775)2冊の教科書をドイツ語で記しています。

彼の死後はマリア・テレジアによって彼の教科書で養蜂を学習することが義務ずけられました。

蜂の巣箱にも彩りを

また養蜂家として、養蜂箱の板とそのデザインを変えたことでも知られています。大きさが長方形になっているのですが、彼はそこにカルニオラ(今のスロベニア)のモチーフを書きました。第一次世界大戦後に様々なモチーフが描かれるようになり、ゴレンスカ地方(北の部分です)の民芸品としてスロベニアに広まっています。

1891年の狩り人のお葬式というモチーフ

本当に短い人生でしたけど、様々な功績を残したアントン・ヤンシャさんです。

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