リュブリャナの近代化の父、イヴァン・フリバル(Ivan Hribar)

リュブリャナの歴史において彼を語らずには入られません。彼なしではリュブリャナの近代化、発展、そして今も修繕され続けている美しいリュブリャナのシンボルが誕生しえなかったからです。リュブリャナ市長在任中に数々の改革、リノベーションを行いました。

彼は1850年トルジン生まれで、ウィーン大学で法学を学びチェコのプラハの銀行のリュブリャナ支店の代表者となります。市長に当選したのは1896年でリュブリャナ大地震の後のことです。

1895年のリュブリャナ大地震からの復興

リュブリャナでは1895年4月14日、イースターの日曜日にマグニチュード6.1の大地震が起こりました。リュブリャナの死者はなんと7人と少なかったですが、リュブリャナの建物の10%が崩壊してしまいました。当時オーストリア・ハンガリー帝国領のチェコ、クロアチア、オーストリアからも寄付が届きました。

そんな中イヴァン・フリバルはスロベニアの建築家マックス・ファビアーニを呼び寄せ、崩壊した街をただ立て直すだけではなく、都市計画、インフラ設備を整えました。いまのプレシェーレン広場、ドラゴンブリッジ、三本橋周辺の建物はフリバル氏の市長時代に再建されたもので、リュブリャナを象徴するシンボルです。天然素材よりも安価で丈夫な素材を使い、実用的かつ美しい建築物が地震後に立ち並びました。よりリュブリャナらしさを感じられる街づくりに精を出します。

また下水道などの配管工事(汚水が川にそれまで垂れ流しだったなんて信じられませんね)、電気化を行い、医療制度、教育制度、観光業を整え、リュブリャナがよりパワーアップして復興することに勤めたのです。

今は廃止されましたが、市内にはトラムが走っていて交通状況も劇的に改善したのです。

リュブリャナがリュブリャナらしい景観、システムを持ち始めたのです。

勤勉な愛国者として

彼は1896年から1910年までリュブリャナ市長を務めました。実は1910年以降も市長当選確実だったのですが、オーストリア皇帝フランンツ・ヨーゼフ1世の許可が降りず15年の任期を終えます。理由は、簡単に言えば反ドイツ主義擁護派だったからです。

当時のスロベニアはオーストリア=ハンガリー帝国の領地で公用語はドイツ語。自国の大学もなく、ドイツ語なしでは高等教育の機会さえ与えられない時代です。自然とドイツ系の人たちがチャンスを掴みやすかったり、裕福になる機会が多いわけです。また今でこそ旧市街のリュブリャナは様々な言語の看板も見られますが、当時はドイツ語のみの記載が許されていたのです。

そんな中1908年、リュブリャナで反ドイツを訴えるプロテストが起き、二人がオーストリア軍隊に射殺される事件が起きました。この運動に加担した疑いを持たれ市長再選とはなりませんでした。しかし市長退任後も精力的に活動します。

衝撃的な最後

彼が市長を退任して4年後、第一次世界大戦が起きます。彼は南スラブ人の国、ユーゴスラビア建国の支持者でしたし、ほかのスラブ系の国々と協力して政治活動も行っていました。パンスラブ主義活動で逮捕も経験していますが、苦境に屈せず信念を貫きます。

第二次世界大戦が近づくと反ファシズムを表明。しかしながら1941年、第二次世界大戦中リュブリャナがイタリア軍へ占領されると旧ユーゴスラビアの旗を体に巻き、リュブリャニッツァ川に身を投げ自殺。衝撃的な最後を遂げるのでした。

彼が身投げをした場所はフリバルの堤防は(Hribarjevo nabrežje)と名付けられ2010年8月には彼の銅像が立てられました。信念の人フリバル。理想があり、それを実行する力のあった優秀な政治家でした。いまのリュブリャナをどう見ているのでしょうか。

フリバルの像。

コメントを残す