美しい自然で世界に知られているブレッドは、スロベニアを代表する観光地です。しかしこのブレッドを広めたのは、なんとスロベニア人ではなくスイス人のアーノルド・リクリ(Arnold Rikli)という人物なのをご存知でしたか?スイス人の彼がなぜ、そしてブレッドの何に着目したのでしょうか。
化学薬品による病気によってブレッドへ
アーノルド・リクリはスイスで裕福な家庭の三人兄弟の長男として1823年に生まれました。父親は政治に関わり、自分の皮工場も経営していたビジネスマンでした。ヨーロッパの各地で自身が経営する工場を持っていたようで、息子たちにも野心を持ちキャリアを築いて欲しいという思いから、自分の工場へ息子たちを送り出します。
しかし、工場を回るツアーでアーノルドは下痢などの症状が出て体調を崩してしまいました。工場で使用されていた化学薬品にさらされていたことが原因だと考えたアーノルドは、水療法の本を書いたカール・ムンデの自然療法を試します。それは太陽の下を歩き、お湯や水のシャワーを交互に浴び血行を促進し、菜食主義の食事療法をするというもので、彼は実際に試して見たのです。
彼が初めて自然療法や水療法の知識に触れたのは19歳の時。その時は全く人気のない療養方だったのですが、彼は自分で実験的に健康法を試し続けます。そして1840年代に、彼がオーストリアのシーバッハという村の工場で働いたとき、そこで日々化学製品に触れ病気になる従業員に対し、自分が得た知識を教えて試すようにアドバイスすると、たちまち評判となったのです。
そこで彼は家族経営のビジネスを手放し、ブレッドへ向かうのです。
ブレッドで見出したリクリの健康法
1852年に初めてブレッドへ来たアーノルド。そこで自分の体調も取り戻し、2年後には自身の療養施設を立て、当時流行っていなかった自然療法的な健康法を広め、多くの人が彼の療法を求めブレッドへ向かい一躍観光地として人気になるのです。彼がたどり着いた健康法は、水、空気そして光に触れるものでした。
しかし、彼は長い間ブレッドへ住んでいたにもかかわらず、スロベニア語を話せなかったそうで、すべてドイツ語で表記してやり取りを行っていたそうで、地元の人には少し評判が悪いという噂があります。
アーノルド・リクリ流健康プログラムinブレッド
彼の健康療法を試す方々は、木製の、しっかりブレッド湖が見渡せる宿舎で寝泊まりします。食事は質素なベジタリアンスタイルで、お酒やタバコは禁止で、破った場合は罰則があったとか。
日の出から日没までびっしりプログラムが組まれ、着るものも決められていました。
ブレッドを裸足で歩く際には男性はコットンのシャツとハーフパンツ、女性はノースリーブで膝丈のワンピースを着用しなければなりませんでした。性別、健康状態などにより歩くコースや時間が決められ、短いものだと30分、長い場合は4時間も歩くことがあったそうです。以前紹介した、オイストリッツァもコースの一つでした。
その後短い朝食を野外で終え、再び屋外プログラムが始まります。なんとほぼ裸で行われたそうで、日光を浴び、湖で泳いだり、そして暖かいシャワーを浴びます。
静養も大切なことの一つで、一日8時間の睡眠が決まりだったそうです。一日の健康法が終わったら夜は社交タイム。プレトナボートに乗ったり、テニスをしたり各自楽しめるプログラムが用意されていたそうで、1ヶ月滞在する方もいたそうです。
全てのプログラムが料金に含まれますが、19世紀の料金ではとても高い部類に入ったそうです。レベルにすると当時の年収に近かったそうで、リッチな人しか来れなかったそうですね。
医師からは彼の療法はペテンだと言われたそうですが、アーノルドのプログラムをリピートする方もいたり、健康になったという方もいたりで、ビジネスは大繁盛したそうです。
ブレッドの湖の大きさや、歩くのにちょうどいい、それでいて景色が完璧な丘がある立地、綺麗な水にアルプス気候の涼しさ、またあまり着目されていない人気のなさも彼の療養プログラムにはピッタリだったのかもしれません。
リクリ伝説の終わりと復活
彼が築いたブレッド健康ツーリズムは第一次世界大戦を機に終わりを告げます。戦争が始まると「旅」は人々の日常からなくなり、彼の施設も閉鎖されます。
しかし今現在は彼のメソッドが見直され、ブレッドを語る上でも美しい自然は切り離せないのです。彼の療法が100%正しいとは言いませんが、それでも現代の人にとってあらゆる嗜好品をカットして自然にどっぷり浸るプログラムは必要なはず。空気が綺麗で、夏も過ごしやすいブレッドでいろいろなアクティビティを楽しんで欲しいです。
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