第二次世界大戦のことを調べています。まあ復習というか、詳しくもっと見ていこうと思って初心に戻って調べています。そうすると、ものすごく悲惨な状況にスロベニアがいたことが良くわかります。もちろんどこの国でもそうだったのですが、私も人の親になり戦争を経験した方に対する尊敬が増し、犠牲者の方に追悼の意が湧きます。今年の8月も心の底から手を合わせられそうです。本当に忘れちゃいけない過去があるんですよね。
占領された場所、地域
左上がスロベニアになりますが、今のスロベニアに比べて西側が少し削られていますよね。それはこの時スロベニアの西側、プリモルスカ地域と言いますが、そこが第一次世界大戦後イタリア領になっていたのです。したがって今よりは狭い領土がスロベニアとなっています。
リュブリャナはイタリア軍、その北はドイツ軍、そして北東はハンガリーに占領されました。
そもそも占領されたのは当時のユーゴスラビア軍がドイツ軍の攻撃に対して降伏したからなんです。1941年4月6日にドイツ軍が何の連絡もなしに攻撃し、およそ1週間戦ったのですが政府関係者がロンドンへ亡命する形で降伏。そして占領されるわけです。
今のボスニア、クロアチア、セルビア、マケドニア、モンテネグロ、コソボもそれぞれイタリアやドイツ軍に占領されています。
しかし特にスロベニアは国土が分断される形になっていて、そのことは語りきれないほどの悲しい事実を残しました。
ドイツ軍の占領
ドイツ軍は皆さんもご存知のナチスドイツ軍です。実際アドルフ・ヒトラーはマリボルへきて演説を行い、国をドイツ化する目的を発表します。公用語をドイツ語に、氏名の改正、ドイツ人を引っ越させたり、スロベニア人を勝手にセルビア(ドイツ軍が侵攻しています)へ強制送還させたり、強制収容所へ送ったり、兵士として徴兵させ多くのスロベニア人が命を落としました。
その支配の速さは一番で、それは非常に無慈悲で強硬だったということを意味します。
イタリア軍の占領
イタリア軍は実は3つの占領軍の中でも穏便かつ一番ゆっくりに支配していきます。公用語もスロベニア語を交えた2ヶ国語使用、文化的な活動や政府と関係ない活動なども許可され、戦争で閉鎖される状態が続きましたが、リュブリャナ大学も開校していました。
しかしながらファシズムの浸透やイタリアを第一に持ってくる方法をとったのはドイツ軍と変わらず、イタリアの文化の素晴らしさを強調したり、イタリアやファシズムの祝日をお祝いさせたり、スロベニア人をイタリアの町や学校へ送り勉強させたり、イタリア人の芸術家を招いたりなどしてスロベニア語やその文化、価値を下げようとしたのでした。
もちろん最重要な機関はイタリア人を雇用しファシズムスタイルを浸透させました。ある期間はリュブリャナ市民は徴兵を免れるなど特別なステータスをもらっていたようです。
ハンガリーの支配
ドイツのイタリアに比べると、中間レベルで支配が進んだようです。実は最初はドイツ軍の占領下にあり市民は安堵したようなのです。理由はドイツの生活水準がよかったことなどがあるようで、貧しい人々の生活レベルが改善されるのではと思ったのではないでしょうか。
しかしドイツ軍は4月16日にプレクムリエを離れ、ハンガリーの支配が始まります。まずスロベニアの教師、法律家などを収容所に送ったり、学校で使用する言語をハンガリー語に統一し、スロベニア語の本を焼くなどしてハンガリー化を測ります。またプレクムリエ地方は第一次世界大戦中はハンガリー領でしたので、ハンガリーの文化を復興させるための取り組みも行われたようです。
少し複雑なのですが、スロベニア語でヴェンディ(Vendi)人と区分されるスロベニア人がいまして、これは1000年前はハンガリー人と一緒に住みその文化や生活スタイルを取り入れたのですが、長い時間をかけたスラブ化したスロベニア人だそうで、新聞などもハンガリー語になる一方で彼らの方言は受け入れられたそうです。
スロベニア人の抵抗!
こうして3つに分断されたスロベニアはもちろん黙ってはいません。スロベニアにとって、スロベニア人にとって何が一番いいのか、行動に起こす人が出てくるのです。外国、外からの力によってバラバラになったスロベニアですが、そのあとは同じ民族同士でも大きく意見が分かれ長い間対立することになります。
ドラマや映画になりそうな第二次世界大戦のスロベニア。本当にドラマティックです。
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